「普通ってさぁ」の”普通”について考えてみた

自分の基準があることって大切だと思うのだけれど、それが他人に対する判断基準となる危うさについて考えていました。

要するに「普通ってさぁ」と言うときの「普通」について考えてみたんです。きっかけは娘たちのちょっとしたやり取り。

次女(妹):「あ~、○○ちゃんと○○くんとあんなことも、こんなこともしたの。すごく楽しかったなぁ~。」

長女(姉):「なんだか自慢みたいでイライラする」

気持ちをすらすらと口に出す妹に対して、あまり気持ちを口に出さない姉。どっちが普通でどっちが良い、悪いもないのだから表現方法なんて一緒じゃなくてもいいと思うのだけれど、私自身は長女(姉)の発言にそれってどうなのと反応してしまうことがあるんです。

この時にもこれが自慢に聞こえるなんて~と反応した私。

長女になぜそういったのか聞いてみたら「羨ましいって気持ちがあったから、つい・・・」ってサラリと言ってのけた娘。ずきゅーーんと撃ち抜かれた気分です。
私、こんな風に言えるだろうか…って考えさせられました。実際、私が娘の発言に反応したのって同じように考えることがあってそれを変えたいって思うからなのかもしれない。

しかも、どんな思いがあっての発言なのか知ろうともせずに、自分の考えや感じたことを基準にして他人のことを判断してしまう危うさを上の娘が教えてくれているように感じました。ついね、親である私の考え方ややり方が”普通”になりがち。そこに根拠がなく、説明もできず自分の感覚でしかないのに「普通」になってしまう危うさ。


親子間では特にお互いが異なる人間だということを忘れがちになってしまうもの。

自分のやり方が上手くいったからといって他の人にその方法を強いたところで必ずしも好ましい結果が得られるとは限らない。
時にその「普通」が相手や自分を追いやってしまうこともあるのだということを片づけを通じて学んだはずでしたけれど。時々顔を出しそうになります。


「普通ってさぁ」と自分の考えを押し付けたくなったら「普通って何?」と問いかけてみてもいいかもしれないな。

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